2024年7月5日更新
まず神港人物太平記(著者:水辺楼主人、新人物評論社 1934)で我が祖父神田有(神戸アイス・スケート場経営代表者、新開地土地株式会社 代表取締役)が紹介されているのでその全文を掲載します(著者の本名も生没年も不明で著作権がきれていることは確認済み)ご興味ある方がいましたらお読みいただけると幸いです。
我が祖父 神田有は、若いころは兵庫県県警勤務でしたが商才を見込まれ神戸の魚市場の会計主任となりその後経営を任されます。
そしてその魚市場が歴史的な出来事で幕を閉じることになりその跡地の利活用問題が浮上。
祖父は誰も思いつかないアイススケート場、それも当時、東洋一の日本最高設備で庶民からアスリートまでが使用できるスケート場を開設という形で解決したのです。
神戸新開地に昭和9年(1934年)1月に神戸で初めての屋内スケートリンク、神戸アイス・スケート場、昭和10年10月にスポートランドをOPENさせ、子供たちの健全な遊び場、青少年の育成、さらには日本スケート界に貢献した人物です。
神戸新開地物語(のじぎく文庫 昭和48年発行)には、「アイス・スケートとスケート映画館」という見出しで8ページに渡って紹介されていいます。いくつか引用して紹介します。(引用『』)
1.『気品ある正しいスケート技術の普及をと、青少年育成にかける神田有さんの熱意は、フィギュアの稲田悦子ら名選手の誕生となって実ってきた。入場者には、このころまだ珍しかった「スケートのてほどき」が配られたている』
稲田悦子さんはが大阪生まれで12歳の時に1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックにフィギュアスケート競技女子シングル日本代表で出場している。1940年(昭和15年)の札幌オリンピックの有力な選手として期待されたが、日中戦争が長期化するなど国際情勢悪化により1938年に日本が札幌オリンピックを返上している。
神田有の長男で我が叔父の神田博も祖父のアイス・スケート場で育った一人であり1937年、全日本選手権に出場し、片山敏一に続き2位に入り1938年全日本選手権で優勝したものの、オリンピックには出場できなかった一人です。
父もスケートは得意でしたが予科練に入り戦争経験をしたため、戦後はGHQ指令で卒業が認められずつまり大学進学ができず、学生スポーツも断念せざるをえなかったと聞いています。
祖父や叔父については当時は広く知られていたものの現在はほとんど知られていないので、残念に思い紹介する次第です。
神戸新開地の変遷について(WEBで公開されている神戸大レポートへのリンク)
両親からは祖父は家族よりも国家のためという人でいう話もよく聞いていました。
私は、本当の幸せとは何か?考えるようにもなり、宮沢賢治の銀河鉄道の夜を読んだとき、私はまずは家族のために生きたいとは思いました。
家族にとっても社会にとってもいいことをしたいという虫のいいことを考えてきました。
今、浜松に暮らしているわけですが、自分で直接できる知識・技術という面でワインとアロマをツールに、音楽の街:浜松発の独自の取り組みができたらと思っています。
2020年夏の東京オリンピックで私も何か出来たらと考えました。
アスリートが日々のコンディションを整え、本番では最高のパフォーマンスを出せるよう香りでサポート出来たらと思ってAEAJのコンテストはテーマが東京でしたが戦時中、札幌でのオリンピックも開催できなかったことを踏まえ、世界各国産の精油に北海道産の精油も加えてブレンド「アスリートに捧ぐ平和の馨り」と題して応募しいい線までいったのですが残念ながら最終10作品に絞る段階で落選。
コンテストに残らず残念でしたが、ある程度評価委頂いたのでこの香りをバージョンアップさせてアスリートの皆さんに役立てたいと思って取り組んでいます。
その翌年、2021年12月に発表された生活の木フレグランスコンテント2021では、Tree of life賞を受賞できましたが「アスリートに捧ぐ平和の馨り」をつくる過程で多くを学び様々なブレンドを体験した成果だと思っています。